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庄内の歴史

海坂藩のモデルとなった庄内藩とは

庄内藩・藩主 酒井家の歴史

酒井 忠久(さかい ただひさ)

 酒井家初代・忠次は、徳川四天王(酒井、榊原、井伊、本多)の筆頭で、家康より15歳年長であった。忠次の奥方碓井姫(光樹夫人)は、松平清康(家康の祖父)と華陽院の間に生まれ、忠次は家康の「外戚の叔父」にあたり家康との結びつきは固いものであった。

 幼少の竹千代(家康)をよく支えて、駿府へ人質に送られるときには供奉し、家康不在の三河国を守り粉骨砕身の働きをした。弘治2(1556)年に織田軍が三河へ攻め込み、これを撃退する。

 永禄3(1560)年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、元康(家康)が三河国で自立する。忠次の役割も次第に重要になってくる。

 永禄7(1564)年には吉田城を攻し、その恩賞として家康から吉田城を与えられる。ここに酒井忠次は東三河の旗頭になる。

 元亀元(1570)年の「姉川合戦」では、徳川軍先鋒を務め、榊原康政部隊が朝倉軍へ突入し「遅れてはならじ」と奮戦、織田・徳川連合軍を勝利に導く。

 元亀3(1572)年「三方ヶ原合戦」では、鶴翼の陣の徳川軍の右翼として武田軍の小山田信茂部隊を撃退する。しかし武田勝頼部隊・馬場信春部隊の巻き返しにあい敗走。徳川軍は浜松城に退却、その時、士気を鼓舞するために、忠次は太鼓を打ち鳴らし続けた。歌舞伎で知られる「酒井の太鼓」である。

 天正3(1575)年の「長篠合戦」では、合戦前夜の軍議で信長の要望で「えびすくいの舞」を踊り、その場で鳶ノ巣山砦攻撃を信長に意見具申した。信長は即却下。その後夜に信長に呼び出され鳶ノ巣山砦の攻撃を命じられ、隠密裏に出兵、鳶ノ巣山を見事攻略する。

 天正7(1579)年、信康の妻・徳姫は父・信長に、信康とその母・築山殿について「十二個条」にわたる文書を送った。内容は「築山殿が武田氏と内通している」「信康の日々の行動が粗暴である」といったものであった。家康は安土城へ忠次・大久保忠世を弁護に派遣する。しかし、忠次は一部のみの弁明しかできず、結果として信長が信康の切腹を命じるこの一件は家康の心中に複雑な思いをもつこととなった。

 天正10(1582)年の「本能寺の変」では、家康とともに決死の「伊賀越え」の末に帰還し、その後の信濃・甲斐の切り取りにも活躍した。

 天正12(1584)年の「小牧・長久手合戦」では、小牧山占領に動いた豊臣軍森長可部隊を羽黒で奇襲し、重要拠点である小牧山は徳川軍のものとなり、その後の戦況を有利に導いた。

 天正14(1586)年には秀吉から推薦され従四位下左衛門督に叙任。さらに秀吉から近江国一千石と京・桜井の地に邸宅を与えられた。

 天正16(1588)年、家督を家次に譲り隠居したが、それまで忠次は家康のもとで筆頭家臣であった。

 天正18(1590)年に家次は下総国臼井三万石を命ぜられるが、不満に思った忠次は家康に依頼したところ家康は「お前も子供が可愛いか」と言ったと伝えられる。「信康事件」は決して終わっていなかったように見えるが、この言は忠次を説得するために発せられ、酒井家に対する処遇に信康事件はあまり影響しなかったと思う。四天王の他の領地、本多忠勝は上総大多喜、榊原康政は上野・下野、井伊直政は近江佐和山城、いずれも広い領地はあたえられておらず、天下人となった家康は、股肱の臣を幕府を守る上での要地に配置し、幕藩体制に、組み込まざるを得なかったからである。なお庄内藩、支藩松山藩では信康を祀った社を建立、懇ろに弔われている。徳川家康、そして織田信長、豊臣秀吉、北条氏政にもその才を愛された忠次は、義に厚い典型的な三河武士であった。

 酒井家は吉田から、下総臼井へ、そして高崎、高田、松代と転出する。その後山形一円を領した最上家が瓦解するにいたって庄内には酒井家三代忠勝が元和8(1622)年松代から入部する。以後明治にいたるまで酒井家が転出することはなかったが、天保11(1840)年、庄内の酒井忠器(十四万石)を長岡へ、長岡の牧野忠雅(七万石)を川越へ、川越の松平斉典(十五万石)を庄内へという三方領地替えの幕命が突然下されたことがあった。財政難に苦しむ川越藩が豊かな庄内をと希望し画策したためと推察されている。転封移転の準備を始めるが、移転費用負担軽減について藩内領民からの諸要求を庄内藩が聞き届けたことにより、領地替え反対要求にまとまっていく。藩主酒井忠器の長岡転封を防止するため、例えば川北の僧侶は真言、浄土、曹洞、日蓮宗など宗派をこえ、農民と共に江戸へ向かい、将軍の菩提寺である寛永寺に駕籠訴を決行するなど庄内全藩規模でお国替え反対一揆がおこった。翌天保12(1841)年7月幕命が覆される前代未聞の結末となった。この一揆後すぐにその経過が描かれ記録された。絵だけで約80シーン、全巻50メートルにおよぶ「夢の浮き橋」(致道博物館所蔵)は、資料的価値が極めて高いと評価を受けている。

 九代忠徳のとき、藩財政の行き詰まりや士風頽廃と極めて重要な問題に直面した。忠徳は白井矢大夫を登用し、農政改革を行い、藩財政は好転した。そして士風頽廃は遠回りではあるが教育の振興に努めるほかに道はないとして、藩校の創設を企図した。創設資金を得るため、学田をつくり、また米沢の興譲館や備前の閑谷学校など先進校の視察を行う等、着々と準備を整えた。藩財政が安定した寛政12(1800)年忠徳は藩校創設を命じた。幕府当局、大学頭の許可と指導を受けながら進め、文化2(1805)年『論語』の「君子は学んで以てその道を致す」より藩校を致道館と名付け、開校した。それよりさき荻生徂徠に師事した庄内藩家老水野元朗、疋田進修二人の質問に徂徠が答えた和文の書簡をその門人の根本武夷が編集し、『徂徠先生答問書』として出版、徂徠学の入門書となっている。その原本でもある重要美術品『徂徠先生答問書』四巻は当致道博物館が所蔵している。この経緯により当時異学といわれた徂徠学派の学風が引継がれた。忠徳は趣意書(被仰出書)で、教育の目的、方針、その方法まで明示した。人には天性得手・不得手があり、一人ひとりの天性に応じて、それぞれを精一杯伸ばす教育と生徒の性質に合うよう偏りがないように指導することが大切とした。学力向上を促すために等級制をたて、句読書(小学校)では担任教師がいて、少年輩の遊び所として寛大に扱い、面白く興味を喚起させるように指導するが、終日詰(中学校)以上は、自学自修と、学力の自己評価の機会ともなる発表と討論の「会業」と呼ぶゼミナールが中心である。学問は、人から教えられるのものでなく、自分で学び取るものと自学自修が強調された。教師は教え過ぎにならぬよう、進め方や調べ方の手がかりを与えるだけである。教師たちも会業を開き、共同研究に努めた。教育の効果は顕著に表れ士風が刷新され、多くの人材を生み出した。庄内藩は江戸市中取締の任にあたって礼節を守り、その重責を果たした。明治時代戊辰戦争で公明正大な処置をした西郷隆盛に私淑、その箴言を理解して『南州翁遺訓』を編んだことは、致道館教育の賜であろう。

 藩校致道館の学統を受け継ぎ設立された致道博物館では、現在、古典講座や古典素読教室が催され、また各地で講座も催され、儒学の伝統は、受け継がれ考究されている。

(致道博物館館長)

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